黄金大仏と雲仙山八十八カ所巡り(祈願)
満明寺 釈迦大仏
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参道階段を上ると、境内奥に釈迦堂が見えてきます。
釈迦堂には黄金色の釈迦大仏が鎮座されています。また境内には、15分ほどでゆっくり巡れる雲仙山八十八カ所巡りの祈願・遍路もあります。釈迦堂に鎮座される釈迦大仏は、明治30年に起こった火事で釈迦堂とともに一度焼失しています。
しかしその後、檀家を中心に募金を募り、5年の年月をかけて京都で彫刻しその姿を取り戻しました。
高さ約5m、奈良の大仏様の3分の1の大きさです。昭和35年に修復され、現在は5層の金箔で覆われています。
★追記資料1:公害と奈良の大仏
奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)建立時の金メッキには、約50トンの水銀を用いた「アマルガム法」が採用され、作業環境や周辺地域に深刻な水銀公害を引き起こした。高濃度の水銀蒸気が発生し平城京全域へ広まり、多くの有能な職人、大仏建立のために苛酷な労役に苦しみ、酷使された多くの庶民が中毒に苦しみ絶命する事となった、これが平城京の環境悪化(たたり)となり、後の長岡京への遷都に影響した。
★追記資料2:行基と奈良の大仏
大仏発願の13年前730年、行基を慕う民衆が集会を開いた。「多き時一万人、少なき時はすなはち数千」と『行基年譜』は伝えている。彼の献身的な活動は民衆の心をとらえ、巨大群集と化していた。それは政府にとって行基の存在は脅威となっていた。
717年政府は「小僧行基」は、みだりに街頭で幸不幸を説き「百姓を誘惑する」者として激しく非難。しかし、民衆と共にあった彼の活動は、いよいよ強力になった。
そして、大仏造営が始まると、政府は、ついに「小僧行基」を「大僧正」に任命せざるをえなかった。その人気によって行基についている民衆を大仏建立に動員しようとした。
大仏建造事業の推進者となった行基は開眼供養を見ることなく、749年82歳で生涯に幕を降ろした。彼の死後も彼の教えを信じた哀れな民衆は『大仏建造に酷使利用』された。
史料では建造にかかわった数、260万人と記され、当時の人口の2人に1人が、この建造にかり出された。大仏建造の時期、都では地震、旱魃、疫病が相次いだ。餓死者が続出する地獄さながらの状況の中での建造であった。
聖武天皇は728年に我が子・基皇子を一歳になる前に亡くしている。大仏建造を思い立った3年前の737年には、後ろ盾であった藤原四兄弟を亡くし、大仏発願の翌年の744年には共に難波へ行った息子・安積親王を変死によって亡くした。都を転々とさせて、まさに動揺の中にあった。つまり、聖武天皇の大仏建造というのも『自らの平安』を祈っての事業であった。
「朕も造りまつらむ」この一言によって、天変地異の地獄絵の中で『民衆は大仏建造の重労働』にかり出された。信仰はいったい何のためにあるのか。
★追記資料3:鑑真と奈良の大仏
鑑真は、弟子に希望者をつのったが誰も応えない。口を開いた者も、日本への渡航の難しさを言う。そこで鑑真自ら海を渡る決意をその場で熱く語ったという。・・・すでに60歳を超えた鑑真も、あまりに過酷な運命から、盲目の身となってしまった。
しかし、これでくじけることなく、鑑真は6度目の渡航を決行する。753年遣唐使一行の船に乗って、ついに日本の土を踏んだ。渡航をはじめに決意して12年目の快挙。6回の渡航によって36人が海の藻屑と消え、299人が挫折、脱落していった。
都入りした鑑真は、当初こそ大歓迎を受けたものの、早速授戒を始めようとすると、仏教界から猛反対された。腐敗しきった日本の仏教界に鉄槌をくだすために鑑真は招かれたのであり、腐った当時の仏教界が反発するのは当然だった。私利私欲の堕落した日本の僧との論争では、鑑真の一方的な勝利にこそ終わったが、これは彼と日本の仏教界の間に大きな溝をつくることになる。それでも、鑑真は東大寺で、聖武天皇以下、数百名の僧に戒を授け、戒を受けない者は僧になれないことが正式に決められた。
鑑真は同時に宗教行政の最高長官にあたる大僧都(だいそうず)となり、都入りの翌年の754年、東大寺に戒壇院が建てられ、そこへ住した。
鑑真と共に、腐敗した仏教界を背景に成り上がった僧である僧良弁も大僧都となる。都入りしたばかりの盲目の鑑真に、良弁は完成したばかりの『東大寺の大仏』を見せ、唐にもこれほどの巨大な仏像はないだろうと大いに自慢したという。◎すると鑑真はひとこと『さらに無し』(意味がない)と答えたという。大きいものを作ることに意義があるのではない、といましめたのである。庶民の疲労困憊、苦しみの代償で生まれた大仏とは?
わずか2年で、鑑真は大僧都の地位を辞し、759年腐った日本の僧の干渉がある東大寺(国寺)から独立し、より自分の理想に近い、厳格で静かな正統な仏教修行の場を求め唐招提寺(私寺)を創建した。鑑真は食堂ひとつない、草創期の唐招提寺で創建の4年後、弟子たちに見守られながら静かに息をひきとった。
鑑真和上像の表情にかすかににじむ憂いこそ、こうした晩年の無念さを表しているのではないだろうか。日本仏教界、日本の愚かな僧達の、虚栄・名声・名誉・地位・私利私欲、に対して『さらに無し 』と。
( 日常生活や仕事において、虚しい虚栄心を捨て、必要最低限を見極めて、無駄なく、質素・倹約を美徳とし生きるべし・・と小生は思う!)
また、境内から満明寺上公園にある雲仙山八十八カ所巡りのお地蔵様の側には、弘法大師・空海で有名な「四国の八十八箇所巡礼」の寺院の土が埋めてあり、ここ雲仙においても15分ほどのお遍路を経験でき、願い事(家内安全、無病息災、受験合格)の祈願・結願(けちがん)することができます。家族で、グループ、個人で散策を楽しみましょう!
八十八体の仏像、1つ1つのお顔を拝見しながら祈願・遍路をすると、やがて、本堂横に戻ってくることができます。
★ 英語バーション
Go toward the temple’s main hall. Inside is an imposing yet peaceful 5-meter-tall statue of Shakyamuni, the historic Buddha on whose teachings Buddhism was founded. This is just one of many daibutsu, or large statues of Buddha, located across Japan.
Not long after the introduction of Buddhism to Japan, the wandering monk Gyōki came to Unzen and established a Buddhist temple on the mountain in 701. While the temple buildings and the other temples that built later were destroyed when Shimabara became a Christian domain in the late sixteenth century, Manmyōji is in direct lineage of that first temple.
This statue was built in Kyoto, then reassembled here in 1914 after the temple’s original statue was destroyed. In fact, Manmyōji has been destroyed many times across Unzen’s long history of religious unrest. The statue is made of wood and specially covered in an incredible five layers of pure gold leaf—a single layer would soon begin to lose its color from the sulfur in the air.
Go back outside and follow the path into the nearby forest. Here, you can spend some time walking a miniature version of the 88 Temple Pilgrimage of Shikoku. On the island of Shikoku, there are 88 temples associated with the famous monk Kūkai. Temple pilgrimages were a popular way to earn karmic merit and a good excuse to travel, but Edo-period (1603–1868) travel restrictions often presented a barrier. For those who could not make it to Shikoku (or spend two months walking), several symbolic pilgrimages were established across Japan and still see traffic today.
Each of the 88 statues has a unique face and a small amount of soil from the temple it represents buried at its base.