原城と島原天草一揆(中)
原城跡
長崎県南島原市
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江戸時代に入った1612年。徳川幕府の禁教令発布により、国内のキリシタンに対する取締りが強化されると、この地方の状況は一変します。
国内の宣教拠点でもあった有馬氏の領地は、当然ながらキリシタンが多く、当時の藩主有馬直純は領民に対する弾圧に良心をさいなまれ、自ら願い出て日向延岡へ転封になったと伝えられます。
そして1616年。大阪夏の陣の功績によってこの地を与えられた松倉重政が赴任すると、幕府の指示もあり、キリシタンへの弾圧が激しさを増しました。
また、1つの領地に1つの城しか認めないという「一国一城令」が制定されたことから、松倉氏は原城と日野江城を廃止して、交通の便のよい北部に島原城の建設を始めます。
その際、領民達に廃城となった原城や日野江城などから多大な石材を運搬させ、数多くの人夫を苦しめたそうです。石高に見合わない島原城築城や江戸城改築のための税も領民への深刻な負担となりました。
飢饉も相次ぎ、領民は窮乏していましたが、年貢が納められない人々に対して凄惨な拷問や処刑も繰り返されました。