原城と島原天草一揆(下)
原城跡
長崎県南島原市
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1637年10月。そうした圧政に堪えかねた領民の不満はついに爆発し一揆が起こります。松倉氏の居城「島原城」への襲撃や海の向こうである天草にも飛び火し、富岡城も攻撃されました。
しかし、一揆による訴えはうまく行かず、やがて島原の群衆が天草の一揆群衆と合流、廃城となっていた原城に立て籠もりました。その数、2万数千人。 そこで、小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、戦略立った籠城戦を幕府軍と繰り広げることとなります。
鎮圧にあたった幕府方の軍勢は、最終的に約12万にも及んだと伝えられています。原城の立地が防御に適したこともあり、一揆は約4ヶ月に及びましたが、1638年2月、兵糧攻めの末に幕府軍の総攻撃を受け終結しました。
近年明らかとなった幕府軍の記録によると、一揆の鎮圧後、幕府軍に内通していた山田右衛門作だけが命を救われ、その他の人々は老人や女性、子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたといわれています。
幕府は再び一揆の拠点として使用されることのないよう原城を徹底的に破壊し、虐殺した一揆軍2万数千人の遺体を敷地内にまとめて埋めました。その一方、島原藩主の松倉勝家を、圧政の末に乱を引き起こした罪で、大名としては前例のない斬首に処したと伝えられています。
この戦いで一揆勢のほとんどが命を落とし、幕府軍も1万人近い死傷者を出したとされています。島原天草一揆は、江戸時代における最大の一揆といわれており、この事件以降、鎖国政策が確立するなど、幕府の支配政策にも大きな影響を与えることとなりました。